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崖の上のポニョ

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宮崎駿最新作が異例のスピードで地上波初放送。
で、それは良いんだけど本編開始前に一時間の特集が付いていて、
そこで名場面だの何だのネタバレしまくっていたのはどうなんだろう?
まあ劇場公開時に紹介映像も批評も感想も山ほど観ているので今更ではあるのだが、
とりあえず音だけ聞きながらなるべく画面は観ないようにして
借りぐらしのアリエッティ」の紹介の部分だけチェックした。
主題歌アーティストの発表くらいしかめぼしい情報なかったけど・・・。
そして本編。メインストーリーや手描きにこだわった作画など、
基本の要素はそれこそすでに語り尽くされているだろうから割愛して、
個人的に書いておきたいことだけ二段階に分けて書く。
まず一つ目、一般的に考えられるこの物語の仕掛けと構造について。
要するに後半の水没世界についてどう解釈するかという問題だけど、
あれはポニョ母の宣言で始まることと途中の様々な描写からすると、
現実と死後の世界がゴチャ混ぜになってしまった曖昧な物語空間で、
宗介への試練の結果によって存在が分岐確定するってことで良いんだと思う。
ラストでばあちゃん達が元気になっているのがややこしくなってる原因だろうけど、
あれは車椅子=リサカー=オモチャの船=ポニョのヒレといった
「自分の足で歩く」ことと対比される乗り物から解き放たれて
成長するというエンディングを子供達や母親だけでなく老人にも与えただけで、
別に魔法の効果や死後の世界が続いているということではないのではないかと。
現実に戻ったとしてもあの洪水被害じゃ死者多数じゃないのかというのも、
それはまあそこまで世界は甘くないけど明るくやろうよってことで自分は納得。
ただ、それにしても赤ん坊のシーンといいトキばあさんの意味深な描写といい、
全体に不気味な死の匂いが強過ぎるし最後の段階でもリアルな世界は
回復していないように観える・・・というのは確かで、
その辺りについて色々と考えてふと全然関係ないようなことに思い至った。
で、二つ目。この世界における「宮崎アニメ」について。
物語中にリサママが「わたしは元気〜」と節付きで言うシーンがある。
最初から演出で意図されていたのかアフレコでそうなったのかわからないけど、
少なくとも宮崎監督がそれを敢えて残しているのは間違いない。
言うまでもなくこれって「となりのトトロ」の主題歌の一節で
ファンならニヤリとするパロディ要素・・・のように受け取れるのだが、
宮崎駿ってそういうことする監督じゃないよなぁという違和感があった。
更に言うと「崖の上のポニョ」には異様に過去作を連想させる描写・設定が多い。
それは「ルパン三世カリオストロの城」のように疾走するリサカーであり、
パンダコパンダ雨ふりサーカス」のように水没する街であり、
魔女の宅急便」のキキのような大きなリボンをした女の子であり、
風の谷のナウシカ」のオームの殻のように透明なものを被るポニョであり、
天空の城ラピュタ」の落下とは逆に浮上して地上にやってくるヒロインであり、
千と千尋の神隠し」を観た者なら誰でも警戒する怪しいトンネルであり、
もののけ姫」に出てくるもののけの群れのような異界としての海であり、
ハウルの動く城」のようなメタモルフォーゼを基本とした魔法であり、
紅の豚」のように全ての魔法を無効化するラストシーンのキスだったりする。
この作品に秘められた数多くの寓意や神話素の出典を
そのまま神話や古典や昔話に求めるのも正しいことではあるんだろうけど、
個人的にはこの作品に込められている要素って全て既存の宮崎アニメから
引き出してこられるものなんじゃないかと思う。
それを「宮崎駿が片手間で作ったら過去作の要素がダダ漏れた」と済ますことも出来るが、
わざとやっていると考えた方がむしろ自然なのではないか・・・?
と、ここまできて「わたしは元気〜」に戻る。
リサママは何でこの歌を歌えるのか、しかも突発的に子供に対してごく普通に。
答えは簡単、リサママはトトロファンなのだ。
だって現代日本で五歳の子供を持つ若い女性が「トトロ」観てないなんてあり得ない。
(ウィキ読んだら冷蔵庫に小トトロのキーホルダーがあるという情報が)
たぶん自分が子供の頃に浴びるようにトトロをはじめ宮崎アニメを観ていて、
生まれた子供にも普通に観せているはずだ。
リサママは悪い母親ではないので絵本の読み聞かせなんかも可能な限り
やってあげてはいるんだろうけど夫不在で仕事していれば時間的に限界があるだろうし、
そうすると宗介の物語的想像力は宮崎アニメに育てられたところが大きいのではないか?
宮崎アニメに浸かって成長したリサママ世代から生まれた
ナチュラル・ボーン・宮崎アニメファン、それが宗介なのではないか?
この辺からすっかり妄想の領域に入るが、だとすれば宗介が何でポニョを
あんなに簡単に受け入れているのかも物凄くわかりやすく納得がいく。
つまり宗介は、ポニョを「宮崎アニメのキャラみたいな子だ」と思ってるんじゃないか?
だから魚だろうと半魚人だろうと人間だろうと関係がない、
「好き」なのはポニョという「キャラ」であって容姿でも人格でもないから。
というかポニョを作中で現実的に認識しているのって世代が宮崎駿より上で
母親をモデルにしたとも言われるトキばあさんだけであって、
他の連中はことごとく水没するより前からとっくに現実と空想の境界が曖昧な、
つまりはアニメっぽいことを受け入れてしまう世界に生きているのではないか。
そう、劇場に「ポニョ」を観にいった多数の日本人と同じように。
・・・思えば「千と千尋」の千尋は現代っ子という設定ではあったが、
宮崎アニメを観ているような素振りはまったくなかった。
異界の存在をきちんと畏れていたし「あっちとこっち」の区別が付いていた。
しかし本当の、現代の日本の子供達は「千と千尋」を楽しく観ているわけだ。
「トトロ」大好きで大きくなってからもTVで「ラピュタ」やるたび興奮して、
結婚して子供が出来てもジブリの新作が出来れば子供連れて劇場にいって、
「宮崎アニメの世界」と「現実」を果たして区別なんかしているのか?
宮崎駿はいつの間にか「普通の日本人」のほとんどが自分の作品について
既知であるどころか耽溺しきっているという状況に立っている。
千と千尋」の頃はそれに反発があったんだと思う。
だが「ポニョ」に至ってその考え方に変化があったのではないか。
長いんで簡単にまとめる。
この作品における「死の世界」って「アニメ」そのもののことなんじゃないの?
で、日本全土が「ポニョ」公開によってその世界に水没してしまうんだけど、
生まれながらのアニメ世代である宗介はキャラの方を現実に連れていくことを選んで
ハッピーエンドになるというそういう話なんじゃないの?
勿論、通常の死生観を童話的に謳った作品だと解釈するのが正しいはずなんだけど、
筆者としてはどうしてもこれ、巨匠・宮崎駿が人生を語った物語というよりは、
いちアニメーター・宮崎駿が自分が日本人に与え続けてしまった
「ここではない世界」と「現実」とが混在してしまう世界について、
もういいや混在してたってそれでも子供達はきっと元気にやるだろうさと
思いっきり開き直ってしまった物語であるように感じる。
二次元大国日本サイコー!! 二次元美少女萌えー!!
けど最近の子供はアニメと同じくらい可愛いからオッケー!!・・・みたいな。
最後に魔法(変身などのアニメ表現が持つ力)を失って
人間になったポニョを受け入れるってのは二次元美少女への想いを
リアルにフィードバックするみたいな話に思えて仕方ないんだよなぁ・・・。
繰り返しますが二段目については妄想です。
まあ筆者が気付いてないだけでこういう感想持つ人もたぶん多い・・・よね?